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紫雲山等覚院は、栃木県那須塩原市(黒磯地区)にある日蓮宗のお寺です。

電話でのお問い合わせはTEL.0287-62-0187

〒325-0045 栃木県那須塩原市高砂町5-41

等覚院の歴史HISTORY

紫雲山等覚院は、江戸時代の終わり頃に親園村(現在の大田原市)に蓮珠院日長(中津原蓮珠)上人によって開創されました。その後、那須疎水の開削と東北本線、国道4号線の開通により発展めざましい黒磯の街に移転され現在に至ります。移転以降の農地の整理などにより、草創の地は正確にはわかりませんが、現在でも大田原市親園地区に当山ゆかりのものと思われるお題目の碑があり、地域の方々によって守られています。
明治初めの廃仏毀釈や度重なる戦争など、当山も時代の荒波の中、大変厳しい時を乗り越えて参りました。旧地親園村からの移転時にはお寺の窮乏も極まり仏具などもほとんどないような状態であったり、移転直後に建立された本堂が大風によって完成前に倒壊し、やむなく廃屋を利用して建て直されたことなどが古い記録に残っています。
そうした時代を経て、現在の伽藍は第六世本隆院日偉(大塚本隆)上人の代、日蓮大聖人第七百遠忌に併せて整備されたものです。その折の本隆上人による当山沿革が残っておりますので掲載いたします。

沿革 小史

 紫雲山等覚院は元親園村(現大田原市)にあり、一乗軒と号して法華の教風を宣伝せる一草堂なり。中津原蓮珠上人草堂の主となるや教線を四隣に張って宗勢を伸張し寺田四反歩を所持するに至る。更に上人、寺門の発展を願って京都の大本山、大光山本圀寺(現山科)の塔頭にして時既に廃寺せる紫雲山等覚院の寺号移転を交渉す。許されて一乗軒を改め紫雲山等覚院を公称し、京都本圀寺の末寺となり、蓮珠上人当山再興の第一世となる。

 そもそも、紫雲山等覚院は往昔、足利将軍家の帰依篤くその外護により七堂伽藍を具備せる名刹なり。足利将軍家の祈願所としてその盛名を誇りしも、応仁の兵乱により七堂悉く烏有に帰す。爾来、足利将軍家の衰退と共に再び偉観を顕すこと能わず、空しく寺号を記録に留むるのみなり。然るに四世紀の星霜を経て中津原蓮珠上人により京都の名刹再び那須野ヶ原の地に蘇ることとなれり。

 蓮珠上人霊山往詣の後、大島嘉長上人その跡を継ぎ当山の護持発展を思念しおる時あたかも東北本線の開通により躍動発展を続ける当黒磯の地に新たな教線を求めて断乎移転を決意す。内には恩師大田原正法寺、千綾本光上人の教導を仰ぎ、外には黒磯の住人、人見三吉氏の援助するところとなり、寺地一反歩の施入を得、後武田良久氏更に寺地を加えてほぼ現有境内地を確保し、親園村より堂舎の移転を完了するを得たり。間なくして本堂建立の議起りこれが達成に精根を尽す。民間の廃屋を改造して新本堂ようやくにして成る。大島上人深く正法寺千綾上人の恩徳に感じ当山第二世に推し自らは第三世の法燈に連なる。

 大島嘉長上人、那須郡烏山町(現那須烏山市)妙光寺に栄進の後、正法寺中井日光上人徒弟、杉本本宥上人当山四世に晋山するや、寺門の恒久的発展は墓地の確保を先決の要諦なりとし鋭意その実現に心胆を砕く。神山清次郎氏その中心となり敷地を買得、寺檀一体となって障害を克服し遂に昭和四年、共同墓地としての認可を受け、墓域一反六畝を造成して寺門の基礎ここに定まる。

 杉本本宥上人、足尾町(現日光市)本妙寺に座を遷して後、同じく正法寺中井日光上人弟子、大塚潮泰上人当山第五世として迎えられるや、ひたすら寺檀の和融に努め題目の宣揚に勤む。昭和三十三年、当地の篤信の外護者、日野隆司氏より本堂の改築用材の壱基寄進を得て、三カ年計画を以てその工を起し、庫裡、旧本堂(現客殿)を現在地の移し新本堂を建立して旧観を全たく一新することを得たり。

 大塚潮泰上人を扶け不肖、法嗣本隆その跡を襲い本堂建立の業を進めると共に寺門の将来を憂い、瀧澤清太氏を通じて植竹繁雄氏所有地二反八畝の墓地拡張を懇願す。植竹氏の快諾を得てここに当山の付属墓地四反四畝歩をみるに至る。

 昭和五十六年、祖師日蓮大聖人七百遠忌の忌辰を迎えるに当たり、報恩の微衷を注ぎ檀信の寺門丹誠に仰いで慶賛事業を円成し、遠忌正当の秋をもって遠忌大法要と浄業の落慶式を挙行す。以て恩山の一塵に擬し奉る。 南無妙法蓮華経。



昭和五十六年十一月一日

遠忌大法要並びに慶賛事業落慶式の砌

                             本隆選


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紫雲山等覚院

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